糺森の薬師堂 (茨城県守谷市)
「将門記」の研究者といえば、今では村上春樹先生が著名ですが、2010年10月30日(土)に、守谷市の中央図書館で先生の講演会があり、行ってきました。当日は台風の雨風にもかかわらず、大勢の方が聴きに来ておられ、さすが守谷市だと感じました。ただ、せっかくの催しなのですから、60名などと言わず、もっと大勢の入ることのできる場所を用意すればよかったのではないかと思います。また、台風のため、先生が早めにお帰りになられたのも、ちょっと残念でした。
という訳で(?)、今回は筆者の地元守谷市です。
守谷市は旧市街地が台地上になっていますが、守谷郵便局のあたりは少し谷間のようにも見えます。写真1は、その前から台地の上の方を眺めたものです。左手に少し緑が見えますが、この辺りを昔は「糺森」と言ったそうです。
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写真1 守谷郵便局からの風景 |
糺の森といえば京都ですが、なぜここ守谷にその名があるかといえば、将門が京にいたころにちなんで名づけたといわれているそうです。これは、村上先生の「平将門伝説」(2001年 汲古書院)の254ページに【平将門が都の糺の森に擬して名づけたという。】と紹介されています。ちなみに、いつもお世話になる梶原正昭・矢代和夫「将門傳説」(1975年 新読書社)には出てきません。
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写真2 ただすやポンプ場 | 写真3 ただすやポンプ場名板 |
郵便局のすぐ近く、一段低くなっている場所に、写真2のような建物があります。これは、下水道のポンプ場です。下水道は、基本的に汚水を自然流下させますが、それでは処理場まで行きつかない場合(処理場より低い土地からの排水など)は、ポンプで一旦持ち上げてやります。そのため地形によってはこうした施設が必要になります。
名板の文字は「糺の森の谷」の意味なのでしょうか、よく判りませんが、守谷市観光協会発行の「発見のまち守谷」32ページには【今も市内つくし野のポンプ場にその名が残されています。】とありますから、「ただすや」はその意味なのでしょう。
写真1の中央に見える住宅の向こう側は、道路より一段これも低くなっています。そこに降りてみます。
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写真4 急傾斜地の法枠ブロック土留め | 写真5 薬師堂への階段 |
急な斜面を、崩れないようにブロックで覆っています。こうした施設を法面(のりめん)保護工と言います。(なんだか「身近な土木」になってしまいました)
写真5は、その斜面造られた階段で、上の方に堂宇が見えます。これが、文政6年(1823年)小林一茶が近くの西林寺の住職のお世話で門人など総勢75名で句会を開いた薬師堂です。(写真5の右下の自転車が、私の足です)
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写真6 薬師堂 | 写真7 本尊薬師如来と十二神将 |
先の「発見のまち守谷」によれば、この堂宇は享保9年(1724年)の建立だそうです。ちょっと失礼して中をのぞかせていただいたのが写真7です。
今回は、「守谷の風景」のような感じにもなっています。ホームページからご覧ください。