小貝川(こかいがわ)は古く「蚕飼川」と書かれ、「毛野川」「絹川」と書かれた鬼怒川(きぬがわ)とともに、その流域は将門の活躍した舞台と重なっています。この両河川は、筑波山西側をほぼ平行に南北に流れ、古代から氾濫を繰り返し、その河道が定まらない時代が長く続きました。将門の時代になってようやく開拓が進み、それとともに大穀倉地帯となる素地が築かれて行きます。(現在でも時に氾濫するのは、このホームページ別項でもご紹介しましたのでご覧ください)
写真はその小貝川の史跡、「子飼の渡し」跡です。これは写真手前、今の結城郡千代川村(旧宗道村)から写真奥、つくば市(旧筑波郡大穂町)への通りの個所にあります。
今でこそ立派な橋「子飼大橋」が架かっていて、知らない人であれば、こんな標識は見過ごしてしまいますが、将門の当時は、もっと川幅も広く現在千代川村のあるあたりは砂州であったといいます。
さて、この渡しが、「将門記」に登場します。
野本の合戦(
935年)で一族を将門に殺された源護は朝廷に訴えていましたが、朝廷はそれを認め将門を召喚します。すばやく上京した将門は尋問に対し反論し、その効果と朱雀天皇の元服祝いの大赦もあって無事帰郷します。
ともあれ、このあたりは今でも、見る角度を変えれば、はるかに筑波山を望み、なかなかの絶景です。